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「ファン」というのは、対象が好きでたまらないという、主観的な状態。「マニア」というのは、対象そのものよりもそれに対する研究や収集にのめり込んでいる、客観的な状態。「オタク」とは、対象が自分にとってどういうものなのか、対象と自分との関係を考えて再配列できるところまで振り切った状態である。「オタク」は茶道や華道のような「道」に近く、絶対的な正解はない。独自の視点から導き出した「通の目」を整理し発展させていく、自己求道のような修行の過程である。 「オタク」にとって、作品とは語るものである。自分にとって対象とはいったいなんなんだろうと考えることだ。その評価基準を形成しているのは、観察者が属している文化的バックグラウンドである。自分が対象とであったときに、どう感じたのか。対象と自分の間に横たわる、感じ方を決定するバイアスについて探っていくことが批評である。音楽や映画などの作品インタビューにおいて、僕らはついつい正解を求めてしまう。つまり作者と作品の関係の中に僕らが理解すべきメッセージが詰まっていると思いがちであるが、それは違う。正解というのは、「対象と観察者」の間に存在するのだ。映画にしろゲームにしろマンガにしろ、もともと何かを体験するというのは大変孤独なことだ。その作品と自分との間に発生した感動は誰とも共有できない。年代や性別や家庭環境や経験によって、人それぞれ受け取るメッセージは違うからだ。批評というのは、この耐えられない孤独を解消するために感動を言語化し、他人に情理を尽くして共有しようという行為なのだ。 スマートノート 私は大学のときからメモをつけていました。議論の際はポケットからメモを取り出して書きながら話をしていました。
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故人席、と書かれた看板がひょっこりと――堂々と立っているのは何か違うだろうし、かといってしょぼくれた看板になっていても 困る気がするのでこのくらいの立ち方でいいのだろう――立っている席で、イールギットはぶつぶつと知人――黒髪おさげで白衣を纏うと いう明らかに奇怪な格好の男相手に愚痴をつづっていた。 友人というほど親しくはなかったが、それでも顔見知りと呼べる程度には知っている相手ではある。 「……あーのラッツベインとかいう女の子、いったい母親は誰なのかしらね」 話しかけている相手はなにやら図面を広げてせっせと筆を走らせるのに夢中になって――体育祭のゲスト席で図面を広げるおさげの白衣男と あれば相当に目立つのだが、当の本人はまったく気づいていないらしい――おり、聞いているのか聞いていないのかは正直判断しかねた。 が、この際かまわずイールギットは続ける。 「これであのヒステリー女が母親だったりした日には……なんていうか、化けて枕元に立ってやるわ、わたし」 それを聞いて――ヒステリー女、と聞いて反応したのだろう、ようやく白衣の男――コミクロンが筆を止めて 顔をこちらに向けてきた。 重々しく腕組みなどしながら、ひどく深刻そうな声をあげる。 「うむ……これで母親がティッシだったりした日には……」 コミクロンはそこでためらうように一度深呼吸し――想像するのも嫌らしかった―― 「迅速にキリランシェロに制裁を加えねばなるまいな。この最先端テクノロジーによって!」 ばん、と図面を叩く。 「……さっきから書いてるそれ、一体なんなの?」 「うむ。とある武器屋の親父から発注された品のための図面だ。確かユーマ・カスール・ナンブとか言ったかな? 子供に自分の武器を譲ってしまったので代わりが欲しいらしい」 そこでコミクロンは一度言葉を切ると、妙に誇らしげな態度で言ってきた。 「こいつはすごいぞ。異世界の技術の詰まった画期的発明品だ!」 「へえ。それ、どんな武器なの?」 「刀だ」 きっぱりと即答してくる。 「………………なんかすごく原始的な武器に聞こえるけど」 疑問に思って聞いてみるが、あまりコミクロンは気にしなかったようで返事はなかった。 と――そこで気配を感じてふと顔を上げる。 女子生徒がすたすたとこちらに歩み寄ってきたことに気づいた。 黒装束の自分たちと違い、普通の学生服を着た長髪の少女だが――あまり 平穏とは言えない様な、なんとなく危なげな微笑がなんとなく周囲に溶け込むのを拒否しているかのように見える。 「どう?それ、出来上がりそう?」 彼女はコミクロンのほうを向いてそんなことを言ってきた。顔見知りであるらしい。 この子は誰?と視線で促すと、コミクロンはやはり重々しげな仕草で答えてくる。 「うむ。我が科学の持つ偉大なる技術に感服した俺の助手その2だ」 「朝倉。朝倉涼子よ」 彼女はコミクロンのあまりといえばあまりな紹介にも――助手その1は誰なのか気に ならないでもないが、今は関係ないだろう――特に表情を変えず、淡々と自己紹介してきた。 「あなたがこれを?」 コミクロンがせっせと筆を走らせていた図面を示して、イールギットは尋ねてみる。 「そ。同じ雑誌に載ってるよしみってことで特別に拝借してきたの……150ガーベラの設計図よ」 微妙にわけのわからない内容を含んでいる言葉に眉をしかめる。が―― 「まあ、本人に了承はとってないけどね」 「それって盗難って言うんだと思うけど」 さらに聞き捨てならない台詞が飛び出し、イールギットはそちらについ反射的に指摘を入れる。 だがその朝倉という少女は気にした様子もなく、やはり危険そうな笑みを浮かべながらー― 「いいのよ、面白そうだから。『気にするな、ジャンク屋脅威のメカニズムだ』……ってところかしらね」 「そういうことだ。これでキリランシェロに科学の尊さを改めてその身に刻み込んでくれる!」 「……いや、わたしとしてはどっちかっていうとあの女のほうにやってほしいんだけどね」 意気揚々とした二人の前に、イールギットはそんなことを言うのがせいいっぱいだった。 CAST 魔術士オーフェン イールギット コミクロン 涼宮ハルヒシリーズ 朝倉涼子 スクラップドプリンセス ユーマ・カスール・ナンブ
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「ご機嫌」に生きよう(提案) なぜ「ご機嫌」か ご機嫌でいるのは難しい。人間なら嫌な事は常に起こるし、体調が悪い時だってある。そんなにいつも機嫌良くしてはいられない。そんなの当たり前だと思う。ところが、自分の上司や学校の先生が「不機嫌」に現れると本当に迷惑な気分になる。何しろ その不機嫌の原因は(ほぼ)自分ではないから だ。こうなると不機嫌な年上の人は「自分の問題を自分で解決できないまま」年下の前に現れていることになる。「年上のくせに」と、年下の人間は思うだろう。 自分よりも長く生きているくせに、自分のメンタルすらコントロールできないで、その不満をまだ未熟な者たちにぶち巻いている のだからみっともない。こんな感じだろう。なぜ「ご機嫌」であるべきかというと、 ご機嫌な人とは「寛容で器が大きい人」 なので、言いにくい話やどうでもいい話をしやすいのだ。「これを言ったら切れるな」とか「不機嫌で何言っても怒られそう」と思われていたら、誰も話をして来なくなる。必然的に 情報弱者 、”関係弱者”となり、その人は時代に取り残されていく。部下の心情や人間関係も理解できないだけでなく、情報弱者に競争力はないので仕事の結果も出ない事になる。時代に取り残されているので、過去の成功体験だけで仕事を進めようとする。そしてそれは通用しないので更に不機嫌になり人は離れていく、という悪循環が待っているのだ。これは職場以外でも同じで、 不機嫌な親に子供は本当の事は言わない。不機嫌な先生に子供は本当の事は言わない。 すると問題は水面下で巨大化、凶悪化して行き、表面化した時には手遅れになっている。子供のイジメ、自殺などが大人の知らない所で進んで行く原因の1つは、器の小さい年上の人間の「不機嫌」のせいなのだ。 この国でははるか昔に「不機嫌な大人」に対してドアを閉じる、という若者が現れ、それは絶望的に世代を分離してしまっているのだ。 かつてこの国には 「わかりやすい不良」 という人たちがいた。特に80年代の「不良」はわかりやすくて、自分達を「大人」や「つまらない社会人」とは違う「反抗する子供」と主張して踏ん張っていた。この時代のドラマでは大人と子供、不良と真面目と構造がシンプルだった。おそらくはその前の世代が「体制」と「反体制」に分かれていた構造だったところから、 局地的なもの に変わったのだろう。政治や社会に楯突くの事の無力感から「身近な大人」に楯突くようになっていったわけだ。その代表が暴走族で、彼らは社会を変えようなどとは思っていなかった。ただ「ムカつくから自由にやりたいんだ」という主張のみで存在をアピールしていたわけだ。ところが 90年代になると「不良」というのがわかりにくくなっていく。彼らは昔の「不良」のように大人とやり合うことはしない。ただ「スルー」するだけだ。つまり大人を相手にしていないのだ。つまり 子供は大人を「いないもの」として切り捨てた わけだ。そんな子供を理解しようと大人達は必死になったが、あらゆる事が空回りして、子供が唯一心を許す「大人」はガンダムやナウシカやエヴァンゲリオンの監督やアイドルのプロデューサー、アイドルや役者やミュージシャンや芸人など自分の好みの世界にいる大人と、スティーブ・ジョブズやホリエモンなどの「新世代のカリスマ」だけになった。 大人になってしまった「年上」の人間はこの事実を認識していないとすぐに「いないもの」としてスルーされてしまう。 ダダ流しの地上波テレビの時代が終わり、自分の好みのみで選択できるネットで彼らは生きている。気に入らない情報や人間は「ブロック」すれば、自分好みの快適空間は維持される。こうなるともう「年上の特権」が発動できる場は学校や職場の(金のために仕方なく存在している)縦関係のみになっていく。年下の人間はここで 「いかにつまらない年上との接触を無くせるか」 ということに力を尽くす。ブロックをしながらブロックをしてないフリをするのだ。そういう若者が「先輩ありがとうございます」とか言っていても、「早く帰れよ」と思っているのだ。特に 年上である事にあぐらをかいて「不機嫌」を投げ散らかしている人間は実際に会っていても「ブロック」されている 。それが現代だ。
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ARMORED COREとArmored Combat ZEROの合成
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プロデュースサークルとは?
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内田樹 『呪いの時代』 呪いとはなにか 「弱者」は救済を求めて呪いの言葉を吐き、「被害者」は償いを求めて呪いの言葉を吐き、「正義」は公正な社会の実現を求めて呪いの言葉を吐く。それが他者のみならず自身へ向かう呪いとしても機能していることにはあまりに無自覚です。ネット上ではもっとも少ない言葉で、もっとも効果的に他者を傷つけることのできる人間が英雄視されます。その「呪い」の言説が際だってきたのは、1980年代の半ば、「知性の冴え」がほとんど「攻撃性」や「辛口」、「毒舌」と同義になってきた頃からでした。「呪い」とは破壊することを目指します。それは破壊することがはるかに簡単だからです。身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌い、何かを破壊する生き方を選択します。破壊する者の側に回れば、創造した側と対等、あるいは上位に立つことさえ可能だからです。新しいものを創り出すことは、個人的であり具体的なことです。創造する側は匿名性にも忘却にも逃れられずに自分がどの程度の人間であるかをまるごと示してしまう。だから、全能感を求める人はものを創ることを嫌います。何も作品を示さず、他人の創り出したものに無慈悲な批評を下してゆく生き方を選ぶようになります。自分の正味の実力に自信がない人間ほど攻撃的になり、その批評は残忍なものになるのはそのせいです。 自己評価と外部評価 「呪い」がこれほどまでに瀰漫したのは、人々が自尊感情を満たされることを過剰に求め始めたからです。高い自己評価と低い外部評価の落差を埋めるためには、ふつうの人は外部評価を高めるために努力します。けれども中には違う努力で高い自己評価を維持しようと試みる人たちがいます。たとえば「引きこもり」は、自分に対して低い評価を与える外部を遮断して評価されない立場に逃げ込むという解決策です。「自分探しの旅」も、自己評価と釣り合うような格付けをしてくれる外部がこの世界のどこかにあるはずだという信憑に導かれてのものです。本当の私がどこかにいる。いずれ遠い未来か、ここではない場所で本当の私がなすべき仕事を果たしてくれるはずである。だから「私は子どもで、無力で、無能である」ことを正当化してしまった。市民的成熟のための努力を止めてしまったのです。僕たちの社会はフェアではありませんが、でも、それではどうやって社会的に平等を作り上げていくかという創造的な議論にとりかかるべきで、「努力しても報われない」という説明を自分に許してはならない。階層社会は努力することに対する動機付けの有無に基づいて二極化します。努力することの動機付けを傷つけるというのが社会的差別の効果的な部分なのです。この「呪いの時代」をどう生き延びたらいいのか。それは、生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの自分を受け入れ、承認し、懸命に努力することを祝福すること。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け入れ、自分を抱きしめ、自分を愛すること。利己的で攻撃的な誤った自分の愛し方をしている人に、僕たちはまず「自分を愛する」ということを思い出させるところからもう一度始めるしかないと僕は思います。 本当の自分 「自分を愛する」間違った解釈は、自己利益を最優先にし、他人を考慮しないことです。たとえば、金儲けビジネスに熱中し、寝食を忘れて仕事に没頭し、家族を顧みず、友人とも会わないという人はまったく利己的とはいえません。彼が利したのは「金の多寡は幸福の多寡あるいは人間的価値と相関する」というイデオロギーと、「ある種の社会的立場」を他者から承認されたいという欲望です。「自分らしさ」というのは欠如感から生まれます。「私はここにる人間ではない」「私に対する評価はこんなに低いものではない」という現実の自分に対する身悶えするような違和感、乖離感、不充足感、それが「自分らしさ」の実体です。自分を探しているのではなく、自分を支えてくれる土台、壁、屋根を探している。この世にたった一つの自分の入れ物を求めて旅に出たり、転職したり、離婚したりする。就活を始めるに当たって最初に叩き込まれるのが「適職イデオロギー」です。自分が適職に合うために、自分の適性に対する情報と世の中にある職業の情報を必死で求める。しかし、実際に働き始めると、新入社員にはワクワクするようなクリエイティブな仕事が与えられるわけがありません。たいていは誰でもできるような面白くない作業を命じられる。「適職イデオロギー」にとりつかれ、ここが私の天職かと悩んでしまう若者は、「いつか出ていきたいが、今は出ていけないので我慢してここにいる」という就労態度を示すことになる。そんな態度の人が職場で上司に評価され、同僚に信頼され、部下に慕われることは起こりません。職場でのコミュニケーションは不調で、さらに適職を求めるようになります。これが婚活業界に適応されると「運命の人イデオロギー」に悩まされることになります。ですが、結婚というのは普通の人たちがそこそこ幸福に過ごせるようなシステムとして設計されている。「誰としたって、まあ、似たようなものだよ」とゆるい結婚観をひろく採用し、その上で、「どんな相手と結婚しても、そこそこ幸せになれる能力」に教育的資源を集中する。それが成熟した社会における結婚のありようではないか、と僕は思います。結婚が必要とする能力とは、「他者と共生する力」です。よく理解もできないし、共感もできない他人と、それにもかかわらず生活を共にし、支えあい、慰めあうことができる、その能力は人間が共同体を営んでゆくときの基礎的な能力に通じています。日本社会の深刻な問題の一つは、他者との共生能力が劣化していることです。想像力を駆使し、自分のそれとは違う論理の回路をトレースする能力を結婚は要求します。この能力を開発するうえで結婚とは極めてすぐれた制度ではないでしょうか。 草食系男子 性的衝動において積極的でないものを「草食系男子」と呼称します。ここまで集団化すると、誰かの個性と呼ぶことはできません。ある種の社会的ふるまいとして公的に登録されたパターンを彼らは学習し、それを再演している。ではこのような「草食的ふるまい」がもたらす生存戦略上の利点とはなんでしょうか。弱さをアピール出来た個体が、強い個体よりもしばしば多くの利益を得る。そういった実例が蓄積しないと、「弱者を選ぶ」というような不利な行動に生物は踏み切りません。ということは、現代では弱さをアピールする個体の方が利益を得ているということになるのでしょうか。当今の若者たちは決して感情が薄かったり、性的欲望がないわけではありません。そうではなく、傷つくのが嫌いなのです。大人になるというのは「だんだん人間が複雑になる」ということです。表情も感情も複雑になり、人格の層の厚みが増す。少年のような無垢さと、青年のような客気と、老人のような諦念が同居しているというのが大人の実情です。他者と共生するというのは他者に耐えるということではなく、他者を構成する複数の人格のうちにいくつか私との同類項を見出し、この他者は部分的には私自身であると認めることです。内なる彼らとの対話と協働とを経由して、彼らとの共生を果たし得たならば、そのノウハウを足掛かりに、外部にある他者たちとの共生の途も見出すことが出来る。そうして他者との共生は深まっていくのだろうと僕は思っています。オープンマインドとは自分の中の醜さ、臆病さ、狭量な部分もすべて受け入れられる人のことをいいます。こんなのは私ではないと言って切り捨てる人が、他人の欠点に寛容でありうるはずがありません。「自分らしく生きたい」人が、自分らしくない私を排除してしまうとき、他者と共生することは極めて困難です。 贈与経済 経済活動とはものをぐるぐる回すことです。ものをぐるぐる回すためにはまず社会的インフラが整備されていなければなりません。円滑な経済活動は共通の言語の習得を要請する。あるいは法律を必要とする。移動手段が必要となり、道路を整備し、船を造り、自動車を発明し、それを技術的に支援するには気象学や海洋学や航空力学の発達が要請される。それと、「ものをぐるぐる回す」ためには、それなりの「人間的資質」というものが必要になります。仕事ができる人間とは、円滑にパスを受け取り、送れる人のことなわけです。自立せよ、自分らしく生きよ、妥協するなというタイプの「自己決定・自己責任論」が80年代から展開されました。貧しくても自分らしい人生が素敵だというアナウンスが30年続いている。弱者は連帯しなければならない。その当たり前のことが言い落されている。これからの日本はどうなるか。僕の展望は「交換経済」から「贈与経済」にシフトしてゆくだろうと思います。贈与経済というのは自分のところに来たものは退蔵しないで次にパスするということ。消費には身体という限界があり、その分周りの人にパスしてあげたらいい。そのために、パスを送ったときに、「ありがとう」とにっこり言ってくれて、気まずさも、こだわりも残らないような人間的なネットワークをあらかじめ構築しておくことが必要です。貧乏なとき、困っているとき、落ち込んでいるときに、相互支援のネットワークの中で、助けたり、助けられたりということを繰り返し経験してきた人間だけがそのようなネットワークの中に自分を置くことが出来ます。その人が誰にも贈れないひとならば、誰からも贈与が届かない。例えば、世の中には優れた頭脳を持っている人たちがいます。でも、才能の絶対量は評価に値しません。それを自己利益のためにだけ排他的に使用する人間を僕は人間としては評価することができません。たくさんある人はそれを使って困っている人の荷物を持ってあげればいい。自分に例外的に与えらえた能力は、それを持たない人たちの役に立つように使うべきです。見下したり、有意さを利用して自己利益を増大させるために使うものではありません。 あとがき 村上春樹は『ノルウェイの森』がベストセラーになった後に、日本を脱出してしまったが、その最大の理由は業界から彼に向けて発信された組織的な「呪い」から逃れるためだった。それらの言葉を発した本人たちは「教化的善意」なり「批評的理想主義」なりに基づいて自分の攻撃性を正当化していたのだろうと思う。でも、彼らは作家がその批判によってさらに質の高い作品を書くだろうと思ってそうしていたわけではなく、「ものが書けなくなる」ような傷を負うことを願ってそうしていたのである。村上春樹は「バブルが崩壊したあとは、ネガティブなものが主流をとっていた。『こいつはバカだ』とか『こいつはダメだ』とか『こいつはくだらない』とか、今のメディアを見ていると、何か悪口ばかりじゃないですか。でも、そういうものというのは、人びとの心を淋しく虚しくしていくだけだろうという感じがしてならない。ネガティブなことを言ったり書いたりしているのは、簡単だし一見頭がよさそうに見える。実際、今のマスメディアでもてはやされているのは、それに適した頭の良さだったりする傾向があるけれど、僕はやっぱり、そろそろ新しい価値観を作るべき時期だと思うんです。」と言う。いかに鮮やかに相手を閉口させるか、傷つけるか、そのような言葉が瞬時に出る人は頭がよさそうではある。けれども、いったいそうすることで、彼らがいかなる「よきもの」を創り出そうとしているのか。私が問いたいのは、世の中を少しでも住みやすいものにするために、あなたは何をする気なのかということである。完膚なきまでに批判しぬくことが、効果的な改善実践であるという定型からもう抜け出すべきである。私たちは壊す時代から創る時代に踏み入るべきだろうと思う。批判から提言へ、破壊から創造へ、排除から受容へ、そして呪いから祝福へ。社会全体で、力を合わせて、ゆっくりと、しかし後戻りすることなくシフトする時期が来た。
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PanaのLetsNoteの内蔵無線LANで AOSSでつながりません。
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岡田斗司夫『フロン』 男は家庭問題を軽く見ています。頭がいい男は「天下国家を語り、家庭や子育てをないがしろに」し、残りの男は「天下国家も、家庭や教育も、考えたこともない。頭の中は、車とセックスとギャンブルだけ」という人たちなのです。なぜそう思うかといえば、「朝まで生テレビ!」の出演で感じたことだからです。そこで行われる討論は、他人の言うことは聞かず、自分の論を主張するだけの場なのですが、そこで感じた違和感どうやら有識者の皆さんは「国家のことを語ってナンボ」だと思っているフシがあるということです。「日本はこうあるべき」と滔々と語り倒す半面、家族と自分という足元がスカスカで、無理やり大層なことを言ってバランスを取ろうとしているようにしか見えませんでした。一方、朝のワイドショーでは、浮気・離婚・セックスレス・専業主婦……。べったりと地面に張り付いた下世話な話題が続きます。たとえば家庭観の変遷の歴史、各国の家庭観といった比較で議論は一層深まります。が、そんな理性的な議論はなく、良い・悪い、好き・嫌い、当然そうするべき・するしないは個人の自由、といった不毛な口論に偏ってしまいます。視聴者も、自分の人生を顧みるよりは、他人の不幸を見てまだマシと慰める。じゃあ、自分はどうするのか。自分の生活と無関係と言う意味では、朝生の討論と変わらないのかもしれません。 子どもが生まれた これが人生の転機になったようです。SFチックで非現実な夢物語を考えている場合ではない、という気分になってきました。子どもが生まれてからずっと、自分が父親になるということは、どういうことなのか、自分がどうあるべきか、考え続けました。「どうして世の中はこうなっちゃってるの?」「これって間違っているんじゃない」「大人って汚い」……。こういう質問を投げかけられる立場にいるのだという事実を受け入れるのにずいぶん時間がかかりました。でも、子どもに「間違っている!」と言われたときに、「本当はこうしたかったので、こういうふうにがんばった。だけど、結局こうなってしまった」という説明くらいはできるようになっておきたい、と思いました。私は、それまでの仲間から離れ、社会について考えたことを本にする仕事を始めました。考えてみると、それまで私は、この世界でのお客様「消費者」だったのです。「世の中がこうあるのは当然のこと。世の中をどうこうする必要なんてない。この世の中で、いかに楽しく遊ぶかが大切。それでお金を稼いでいければ最高!」。こんな人生観が、グィン、グィンと音をたてて変わり始めました。それだけで終わってはいけないんじゃないだろうか。消費者ではなく、この世の中を作っている側の人間として「大人として、義務を果たす」と言うのは何か、具体的に模索しはじめました。 「豊かさ」も「恋愛」も信じられない、いまの若者たち とりあえず前進するために私が最初にしたのは、身近な人へのインタビューです。そこには、大きな発見がありました。「子供が欲しい」という若者が驚くほど多いということです。新聞やニュースでも少子化が問題になっています。
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登場人物 カウフマン すでに小麦粉(麻薬)をもっている ED時に自らの危険を感じた?→1でのアグラ(ry所持につながる リサ この時点で小麦粉(麻薬)中毒?、まだ生きているがED時に死亡?→ネットノベル見る限り生きてそう。 ダリア まだ普通の服を来ているコスプレババア、そういやクローディアおばさん出なかったな 犬 犬、それだけ、2と同じ犬かもしれない。オマエダタノカーorz 宇宙人 おそらく1と同じ奴、ここで人類と接触?( ´ー`)b